二分の一の成功確立 
 Written by 八凪 
 いつもと同じ時間に目を覚ます。目覚めた僕の目に映るのは白く無機質な天井だった。入院した始めの頃は目が覚める度に映る天井の白さに落ち着かなかったものだが、一ヶ月が経つともう最初の戸惑いはなくなっていた。
 ベットから上体を起こしてぼーっとしていると朝食が運ばれてきた。天井の白さには慣れたが、病院食の味のまずさには未だに慣れることができない。朝食を残すと看護婦さんがうるさいので、僕はまずい朝食をなんとか完食した。
 その後僕は点滴を受けるまで、読み掛けの小説を読んで過ごした。
 決まった時間に起きて、まずい朝食を食べ、点滴を受けるまでの間小説を読んで過ごす。それが入院中の僕の朝の生活パターンだった。



 一ヶ月前、僕はこの病院に入院した。たいしたことはないだろうという僕の楽観的な予想に反して事態は深刻に進行し、手術をしない限り完治はないと告げられた。手術の成功率は三割未満ということらしい。そう聞かされたとき目の前が真っ暗になって、椅子に座っているにも関わらず、体が下に沈んでいくように感じたのを今でも覚えている。
 定期的に見舞いに来る友人、大学の時にできた彼女の早紀にはその事実を言わなかった。正確には言えなかったというほうが正しい。事実を告げて、周囲から距離を置かれること、または哀れむような目をして接してもらうようになることが怖かったからだ。



 手術の日程が決まった。それでも僕の入院生活が変わることなく、ただ時間だけが過ぎていった。



 手術の二日前、親友の郁人が見舞いにやってきた。

「おーっす、親友。生きてるか?見舞いに来てやったぞ。感謝しろ」

 相変わらず騒がしい親友は、ベットの近くの椅子に座ると前の見舞い客が置いていった饅頭を勝手に食べ始めた。

「おい、何勝手に食ってんだよ」

「饅頭だけどお前も食うか?じゃあ、一つやるよ」

「なんであたかも自分の物のように食ってんだよ。俺のだろうが」

 僕たちは饅頭を食べながら、普段の僕たちらしいくだらない話をし続けた。話をしているうちに、いつの間にか僕は今の僕が置かれている病気や手術のことを話していた。
 僕が話している間、いつも騒がしい郁人がとても静かに聞いていた。そして話が終わると、そうかと短く返された。
 その後僕らは黙ったままで、病室内を沈黙が支配していた。

「帰るわ」

 不意に郁人がそう言って椅子から立ち上がった。僕は頷いて郁人が病室を出て行くのを黙って見ていた。
 郁人が病室の入口の前で立ち止まり、僕の方を振り返った。振り返った彼の顔はいつになく真剣な顔をしていた。

「今のこと、早紀ちゃんには伝えたのか?俺が言うことじゃないと思うが、伝えておいてあげた方がいいと思うぞ」

 郁人はそれだけ言うと、病室を出ていった。彼が真剣に話しているとき、僕はいったいどんな顔をしていたのだろうか。


 その夜はいろんなことが頭の中を駆け巡り、なかなか寝付くことが出来なかった。



 手術の前日になった。昨夜、主に郁人の言葉が頭から離れず、睡眠不足の状態で点滴を受けていると珍しく担当医の森野先生がやって来た。 森野先生は僕の体調について尋ねたあと、窓の外に目を向けた。

「いよいよ明日だね」

「ええ、明日です」

 僕らは黙ったまま窓の外を眺めていた。

「先生」

 僕は森野先生に声をかけると、森野先生は僕の方に顔を向けた。

「今から外出してもいいですか?手術前にどうしても行きたい所があるんです」

「どうしても行かなくちゃといけない所なのかい?」

 僕から視線を外し、再び窓の外を眺めながら森野先生が尋ねた。

「僕にとって大事な用があるんです」

 ずっと伝えることが出来なかった今の僕の状態を早紀に伝える。昨日郁人に言われてから考え抜いて辿り着いた答えがこれだった。
 手術前に彼女に全てを伝えてから手術を受けたい。自分勝手だが、これが今の僕の唯一の望みだった。

「なら行って来るといい。ほかの先生には僕から伝えておこう」

「いいんですか?」

 森野先生は穏やかな顔で僕を見ていた。断られるとばかり思っていた僕には意外な答えだった。

「ああ。もし駄目だと言ったら君は病院を抜け出してでも行くだろうからね。ただし、必ず手術前までに戻ってくることが条件だ。それだけは約束してくれ」

 許可が降りなかった場合の最終手段を見透かされてしまい、苦笑いを浮かべたが、僕はそれでも力強く頷いた。



 家に帰り、着替えをしてから電車に乗って二駅離れた早紀の家に向かった。
 二○五号室のインターホンを押した。しばらくドタドタした音がしたあと、眠そうな顔した早紀がドアを開けてくれた。どうやら起こしてしまったらしい。不機嫌そうな顔になった早紀だが、それでも僕を部屋の中に入れてくれた。

「こんな朝早く来るんなら昨日ぐらいに連絡いれといてよ」

 部屋に入った途端、早紀は開口一番にそう言った。朝に弱い早紀は、今日のような休日はたいてい十時ぐらいまで寝ている。現在の時刻は九時半。いつもの休日の起床時間より早く起こされて早紀はご機嫌斜めだった。
 どこかに出かけようと切り出すと、早紀はジト目で僕を見つめ、

「そういうのはやっぱり事前に言っておくことじゃないの?」

と言ってきた。

「ごめんごめん。今朝急に思い立ってさ。お詫びに何かおごってやるよ」

「ホントに?じゃあ許す。ちょっと待ってて。すぐに仕度するから」

 さっきとは打って変わって早紀は上機嫌に仕度し始めた。もしかしたら高価な物を買わされるかもしれないと思ったが、発言したことには責任を持たないといけないので、僕は覚悟を決めて仕度をする早紀を待っていた。



「ところでどこ行くの?」

 仕度を終えた早紀と駅に向かう途中、そう尋ねられた。

「行き先ねぇ…。どっか行きたいとこある?」

「質問を質問で返すのはどうかと思うんだけど…。もしかしてプランとか立ててないの?」

「思い立ったのは今朝のことだから、そういうのは一切立てておりません」

 そう言った途端、早紀に計画性のなさをこっぴどく叱られ、駅に到着するまでになんとかプランを立てて早紀に許しを得ることができた。



 僕と早紀は午前中は遊園地で遊び、昼食は遊園地内のレストランで取り、午後は映画を見てから近くのショッピングセンターを見て回った。
 早紀は子供のようにはしゃぎ、僕はというと映画館を出る頃にはすっかりバテてしまい、早紀に引っ張り回されるだけになってしまった。



 早紀のアパートに戻ったのは、夜の七時過ぎだった。早紀は部屋に入るとすぐに夕食の仕度を始めた。僕も疲れてはいたが、早紀だけに夕食の仕度をさせるのは悪い気がしたため、とりあえず手伝うことにした。
 早紀の隣に立って野菜を切り始めた。早紀の用意した材料を見ると、どうやらオムライスを作るらしい。主菜は早紀に任せ、僕は副菜のオニオンスープを作り始めた。



 夕食を食べ終え、僕らは静かに食後のコーヒーを飲んでいた。
 早紀が作ったオムライスはとても美味しかった。僕が作ったスープもなかなかの出来だったが味付けが少し薄かったのが反省すべき点だった。
 今の時刻は八時半。病院の夕食の時間はとっくに終わり、あと少しで消灯時間に入るだろう。僕もそろそろ帰らなければならない。だが、今の僕の身体を蝕む病についてのことを早紀に伝えなければ、早紀に会いに来た意味がなくなってしまう。

「あのさ」

 意を決して早紀に話しかける。すると早紀は屈託のない笑顔で僕を見た。

「いや…なんでもない」

 そう言って僕は言葉を濁した。早紀の笑顔を見た途端、彼女に病気のことを打ち明けることはできそうになかった。


 しばらくしてふと気がつくと、正面に座っていた早紀が眠っていた。今日は一日中はしゃいでいたので疲れたのだろう。僕は早紀をベットまで運び、テーブルの上の二つのマグカップを洗っておいた。
 そして、早紀に伝えたかったことをメモに書き記し、テーブルの上に置いた。

「じゃあそろそろ帰るよ」

 早紀を起こさないようベットに近づき、そっと声をかけた。早紀はすっかり熟睡しているようで、規則正しい寝息が聞こえてくる。すっかりと寝入っている早紀。これならしばらく起きることはないだろう。
 僕は眠っている早紀に向かってメモに書き記したことと、ほぼ同じ内容のことを話し始めた。僕の身体を蝕んでる病のこと、手術の成功率は三割未満ということ、そしてこのことを伝えなかったことについての謝罪の言葉を述べた。

「今日はすごく楽しかったよ」

 伝えたかったことを言い終え、玄関へと向かおうとしたところで、

「私も楽しかったよ」

 眠っていたはずの早紀が後ろに立っていた。

「びっくりした。いつから起きてたんだ?」

 僕が尋ねると、早紀はエヘヘと笑って、話しかけられたときからと答えた。

「最初っからですか。それなら聞いての通りだ。手術の成功率は三割未満だ。ごめんずっと黙ってて」

「そんなことないよ」

 そんなことない、早紀はそう繰り返し言葉を続ける。

「難しいこと考えないで、単に成功するかしないかの二つに一つ。つまり二分の一の確率って考えられないかな?」

 僕は黙って早紀を見つめた。すると早紀は俯いて、
「ごめん。こんなのただの気休めにしかならないよね」

 消え入りそうな声でそう言った。
 僕は俯いた早紀に近づき、そっと頭を撫でた。早紀は驚いたように僕を見上げた。

「たしかにそう考えると単純だよな。難しいことは医者に任せて、こっちは成功か失敗かの二分の一に賭ければいいんだよな」

 早紀に笑顔で見せると、早紀も悪戯っぽく笑いながら、

「だけどもし成功率が五割以上ならそっちを信じるということで」

「都合のいい考え方だな」

 そう言って僕らはしばらく笑い合った。



「じゃあ今度こそ帰るよ。話、聞いてくれてありがとな」

「どういたしまして。手術頑張ってね」

 僕は頷いてドアノブを回してドアを開けたとき、

「いってらっしゃい」

 早紀がそう言いながら、僕に笑いかけてくれた。
 当然、僕が返す言葉は一つしかなかった。

「ああ、いってきます」



 病院に戻ったのは消灯時間をとっくに過ぎた午後十一時だった。裏口から忍び込み、病室にたどり着くまで誰にも見つかることはなかった。
 病室に入ると誰かが僕のベットに腰掛けていた。
 森野先生だった。

「お帰り。遅かったね」

「すみません。消灯時間をだいぶ過ぎてしまって」

 僕が詫びると、森野先生のんびりした口調で、


「気にすることはないよ。約束通り手術前には戻ってきてくれたんだから。それで、どうだったんだい?」

「おかげさまで、なんとかやるべきことをやって戻ってきました」

 僕がそう言うと、森野先生は満足したようにベットから立ち上がり、病室を出て行った。




 森野先生を去ったあと、僕はベットに潜り、早紀の言ったことを思い出した。早紀の言葉はたしかに単なる気休めであり、詭弁だった。だが僕は彼女の言葉をすんなりと受け止めた。少しでも大きな望みを持ちたいからなのか、早紀が言ったことだからなのかは分からない。ただ彼女の言う二分の一の確率とやらを信じたかった。
 手術はいよいよ明日。どんな結果になるかは分からないがとにかく最後まであがいてやろう、そう心に決めて僕は眠りについた。
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