消えゆく 
 Written by 佐倉ユキ 
「あの木、切られちゃうんだって」
 友の死を知らせるように、彼女は言った。吹雪の夜のことだった。強い風にがたがたと窓は悲鳴を上げ、横殴りの霰が家中の壁にぴしぴしと当たって音を立てていた。それはまるで数万、数億という針が僕らの家に向かって飛んできているみたいで、いずれこの薄い壁を突き破って、僕らをも刺し殺してしまいそうな勢いだった。
 僕は向日葵畑の描かれたマグカップを手に取ると、そこから立ち上る湯気にふっと息を吹きかけた。マグカップを揺らすと、中のミルクココアがじわりと滲む。吹雪とガスストーブ、加湿器、そして見えない針たちの大合奏の中で、深い深い静寂が僕らの足元に重々しく沈殿していた。僕は軽く咳払いをした。
「ねえ、聞いてる?」と彼女はそっと僕に尋ねる。
「聞いてるよ」と僕は言った。なんだか彼女の声は、足元の静寂に気を遣っているようだった。
 こたつの向こう側で、彼女もラベンダー畑の描かれたマグカップを手に取った。僕たちは音をたてないように、静かにココアを飲んだ。少し口に含むと、じわあと甘みが口の中に広がっていくのが感じ取れる。それはとても優しい味だった。彼女が金メッキのスプーンを使って、ココアをかき混ぜると、ちゃりんちゃりんという音が、申し訳なさそうに合奏の中へ加わった。
「いつ、切られるの?」と僕は聞いた。
 数秒の沈黙ののち、「わからない」と彼女は答えた。
「そう。でも、切られるんだね、確実に」
 彼女は小さく肯いた。
「そっか」
 僕はココアを飲んだ。半分ほど飲んで見てみれば、マグカップの内側に、ぐるりと焦げ茶色の線ができていた。さっきまで僕はこの線のところまでいたんだよ、というココアの主張だった。ごめんよ、と僕は思った。君の思いは伝わったけど、でも、もう君はその位置に戻ることはできないんだ。僕も君も、あの木も、全てはただ雪みたいに、降って積もって、溶けてゆくんだ。色々な形で存在の証だけを残して、儚く消えてゆくんだよ。
 僕は残ったココアを、目をつむりながら飲み干した。


 あの木について語らねばならないと思う。
 だが僕が語る、と言ったからには、そこには必ず主観的感情が含まれているわけであり、絶対的な事実をそのまま模写する、ということはできない。描き出された絵には僕の筆だから表現できたいい部分と悪い部分が必ず見えてくる。その違いははっきりと僕にも感じ取れるだろう。だから、正直言えば僕は人になにかを語る、ということが苦手だ。元の物語と僕が語った物語の間に生まれる差異が、僕はものすごく嫌いなのだ。ありのまま伝えようとしているのにうまい言葉は見つからず、だんだん僕は苛々としてくる。できあがった陶器を叩きつける陶芸家の気持ちも、その時の僕にはなんとなくだが理解できる。
 でも今回は、これから先の物語を語るにおいて、あの木についても必ず語らねばならない。Aを証明するのにBの公式を利用するように、僕は今から語るあの木についての話を用いて、また新たな話を展開せねばならないのだ。だから僕は、少し抵抗を覚えつつも、あの木について語ろうと思う。それは僕が十六歳を目前とした、春の日のことだ。
 その日、僕は初めて家出をした。それもただの家出ではない。僕は、もう二度と家に帰るまい、という決心の下に家出をした。それは大人しく気弱な僕からは想像もできないほど、本当に激しい決心だった。理由は一口では説明しがたい深いものだったが、要約してしまえば、これ以上僕の中の大切なものを家族に汚されたくなかったからだ。このまま大学卒業までチョコレートでも溶かすように育てられたら、確実に僕の中の大切なものが消え失せてしまう。それは僕にでも容易に想像できた。僕はこの大切ななにかを守りたかったのだ。だから僕は家出という形で家族から逃げた。必要最低限のものをリュックに詰め、銀行で下ろした二十万円ほどの現金を持って、逃げたのだ。そうするしか解決策は見つからなかった。
 だがちゃんとした計画もなしに家出した人間にちゃんとした潜伏先があるわけもない。とにかく僕は最初に目に付いた鈍行電車に乗り込み、その電車で行ける一番遠い駅まで逃げることにした。そうして知らない駅に降り立ってみて、僕は愕然とした。そこは確実に僕の知らない土地であり、僕のことを知る人物が誰もいない世界だった。ただ僕は、どうしようか、と思った。僕が本当に生温い人間であったことが、否応なしにも理解できた瞬間だった。仕方なく、僕はとぼとぼと潜伏先を探すことにした。
 公園で眠って警察に補導、などという愚行は冒したくなかったので、僕は使われていない納屋を探した。雨露をしのげれば、それで万々歳だったからだ。家出人なのだから、贅沢なことは言っていられない。この二十万円だって、いつ無くなるかわからないのだ。無駄遣いはできない。僕はひたすらに歩いて、納屋を探した。そして希望にぴったり合った納屋を小さな山の上で見つけた。致命的なまでに古ぼけた納屋だったが、想像していたものとたいして差はなかった。
 ただ、僕は納屋よりもその横のあるものに強く心を惹かれた。それが、彼女があの木と称した桜の木である。木は大きく枝を広げて、雨に濡れた子犬を庇うように、みすぼらしい納屋をその枝と花で覆っていた。それほど大きいとは言えないが、その木は非常に生き生きとしていた。なんとなく仮面を被った道化のように、淋しさを押し殺しているようにも見えたが、桜は山の上の、風の抜ける小さな草原の真ん中で一人、振り下ろされた太陽の光を浴びて煌めいていた。僕はしばらくの間思わず見とれてしまった。言葉にしがたいなにかが、僕の心をぎゅっと握りしめて離そうとしなかった。僕は、ここにしよう、と反射的に思った。
 だがそこには先約がいた。今の妻である、彼女だ。つまり僕と彼女は、もうすぐ切られようとしているあの木の下で出会ったのだ。僕は家出人で、彼女は母親を亡くした悲劇の少女だった。少し言い方が悪いかもしれないが、そういうことになる。僕らは互いに哀しみを負い、互いに誰かを求めていた。そしてその誰かは、僕にとっては彼女であり、彼女にとっては僕だった。僕が迷った末におずおずと名前を言い、彼女も自分の名を名乗ったその瞬間から、僕らは本能的にそれを感じ取った。ああ、そうか、君だったのか。僕が求めていた人物は。そんな風に。
 それからのことについては特に語るべきことでもないと思う。僕はその日の内に家出を諦めた。だがそれからも彼女との交流は続き、やがて結婚した。子供はいないが、互いに二十七という楽しい時期であり、まだ子供は必要ないと思っている。結婚生活は極めて順調だ。それだけだ。
 つまり僕が言いたかったことは、あの木が僕らにとってとても大切なものである、ということだ。そう言ってしまうとなんだか稚拙だが、そうなのだから仕方がない。長々と語ってきた中で、本当に大切な事象はそれだけである。ただ、他に強いて言うことがあるとするならば、僕らは非常に脆い人間であり、そんな自分を支えるために互いを強く必要としている、ということだ。実質、僕は彼女を愛することで、未だに大切なものを失うことなく生きている。そして、あの木を愛することでも、大切なものを守っているのだ。だから僕にとって、そして彼女にとっても、あの木は本当に大切なものである。僕らはそのとき、その木が切られる、という人生の分かれ目とでも言うべき現実に直面していたのだ。


 そしてそれは、吹雪から四日後のことだった。
 僕はその日、朝起きた瞬間に、あの木を絵に描こうと決めた。漫画の中の人間が朝目を覚ますと背伸びをし、カーテンを開けるのと同じように、必然的に僕はあの木を絵に残そうと決めたのだ。そうすることで、少しでも正確な形であの木をこの世に残そうとしたのだと思う。断言できないのは、式もなくその答えがふっと出てきたからだ。理由という式は答えから僕が考え出した過程体に過ぎない。
 僕が絵を描くのは、美大に落ちて以来だった。とは言え、確かに今までの人生を否定されたような結果には落ち込んだが、それはただのきっかけである。それ以前から僕は、前にも述べたようなリアルとコピーの差異に嫌悪を覚えていたのだ。ただ、その頃の僕はその奇妙な感覚が嫌悪とは結びつかなかっただけであり、美大に落ちた瞬間に僕はそれが嫌悪であると理解した。露呈された理想と現実の差。それが僕に全てを教えてくれたのだ。
 それなのに今僕はなぜまた絵を描こうという結論に到ったのか。思うに、記憶という極めて曖昧なものよりも、絵という現実に存在するものに残そう、と考えついたのだろう。燃えるように消えていくものよりも、ただただ色褪せていくものに想いを託したのだ。そちらの方が空しくとも、それが今の僕には正しい選択のように思えた。
 そしてそんな意志を彼女に伝えると、彼女は予想通り驚いた。
「絵、描くの?」
 僕はただ肯いてみせた。
「水彩画?」
「そのつもりだよ」
「今から?」
「ああ。花が咲くのを待っていようにも、春までには切られるんだろう? なら結論を出した今描きたいんだ」
「ふーん」
 彼女は少し考え込んでいるようだった。僕はそんな彼女を無視して、僕の部屋のクローゼットにぞんざいに積まれていた段ボールの中から目当ての一つを見つけた。ガムテープを剥がしてみれば、古ぼけた様々な画材が出てきた。心境としては、校庭に埋めたタイムカプセルを十年ぶりに開いたような気持ちと、死体を掘り起こしてしまったような気持ちが五対五の割合でブレンドされた感覚だった。僕はイーゼルやキャンバスを点検し、不具合がないことを確かめてから、さて出かけようと思った。そんな僕に、彼女が言った。
「私も行くよ」
 見れば彼女もしゃれた服装に着替え、両手にはそれぞれ折り畳み式の椅子を持ち、準備万端といった風だった。てっきり彼女は行かないだろうと思いこんでいた僕は、少し驚いた。彼女はあの木が切られることを哀しんでいたし、どうせ切られるならあえて見に行かず、思い出のままにしておこう、というような表情をしていたからだ。
「いいのかい?」と僕は尋ねた。なにを聞きたいのか、自分でもよくわからない質問だったが、彼女はしっかりと肯いた。それは実のところ僕は外国人で、意味のわからない日本語をなんとなく言ってみたら、日本人である相手には一応通じました、といったような感覚だった。しょうがないので、僕も肯いた。
 そして僕らは車で桜のある小さな山へ向かった。僕らは今、あの山がある町に住んでいるのだ。彼女は元々この町の出身で、僕はこの町とはこの町の私立大学に入学してからの付き合いだ。うらぶれたアパートで一人暮らししていたのだ。だが大学を卒業してすぐに彼女と結婚すると、僕らは山から少し離れた繁華街の近くのマンションに部屋を借りた。彼女の実家に少し近すぎるのが問題だったが、彼女の親類とうまくいっていないというわけではないので、そこまで苦にはならない。ただ他人が苦手なので、関わり合いを持つのが面倒だというだけだ。僕の人見知りは未だに治る気配を見せない。
 僕は山の途中にある神社の駐車場に車を留めた。あの木がある場所は、少し歩かないといけない場所にあるのだ。外は二月末とは言ってもまだ冬をたっぷりと孕んでおり、風に耳がちりちりと痛んだ。灰色の雲も空を這い出して、雪でも降り出しそうな天気である。僕らは様々な荷物を手に持つと、まだ雪の残る地面を踏みしめながら歩いた。地面は砂の上でも硬く、残雪は踏まれるたびにじゃりじゃりという音をたてて潰れた。
 そしてあの木を確認できるところまで歩いて、僕は愕然とした。僕の思い出の中で生き生きと輝いていた木は、無惨としか形容のしようがないほどに病んでいた。冬だから、というわけではない。誰の目から見てもその木が致命的に病んでいるのは明らかだった。縦横無尽に、空を掴もうとしているかのように伸びていた枝は縮こまり、幹はなんだか細くなってしまったように思えた。さらにところどころ白く変色してさえいる。僕はそんな木の有様を見て初めて、ああ、本当に消えていくんだな、と理解した。隣にあったはずの納屋は、地面に跡だけ残して消えていた。
「よくわからないけど、病気なんだって」
 そう彼女が説明した。僕は、言われなくともわかっているよ、とは言わなかった。ただ自分の中で九十九パーセントの確信を百パーセントの事実にすり替えただけだった。
 僕は折り畳み式の椅子に座ると、改めて桜の木を前にした。どうしようか。道具を準備しながら、僕はそう思った。元々どのような形で絵に残そうか決まっていたわけでなく、木を見たときのインスピレーションで描こうと思っていた僕は、死にかけの木を前にしてただ呆然とした。僕は、この木がこのまましおれていく様しか想像することができなかった。草原を抜ける冷たい風に、小さくざわめく森が淋しそうだった。
「ねえ、あのさ」と僕は言った。僕の隣に座る彼女は小さく首を傾げる。
 僕は数秒の沈黙ののち、言った。
「やっぱりなんでもないよ」
 すると彼女はため息をついた。
「なに? いいから言ってみてよ」
 僕はどう言っていいか迷った。そして迷いに迷った末に、「なにを、描けばいいかな?」という愚問を彼女に投げかけた。
 だがなんとなく僕の言いたいことを汲み取ったのか、彼女も迷った末に言った。
「じゃあ私を描いてよ」
 そして不意に立ち上がると、桜の木の下に椅子ごと移動した。
 やれやれ、と僕は思った。だが桜の下に彼女がいるだけで、なにかが生まれてきそうな予感がした。そして僕は十数分考えた末に、筆を取った。下書きもなしに、パレットの上に絵の具を出し、描き始める。彼女は一言も言葉を発せず、じっと僕を見つめていた。僕は一つ深呼吸をして、集中した。筆が水彩紙の上を流れていく感触は、とても懐かしかった。
 ただ、書き出したとは言え、正直正確な完成形のイメージができあがっているわけではない。遠巻きに、彼女と桜を重ねて眺めている内に、一瞬だが浮かんだイメージがあった。僕はそれを描いてしまおうと思ったのである。もちろんはっきりとしたイメージが脳内に残っているわけではないので、一回筆を走らせるごとに試行錯誤の繰り返しだ。十年近く絵を描いていないこともあり、こう描こうと思って描いたときの差異も昔よりはるかに大きい。だがそれでもなぜか僕は楽しんでいた。なぜだろうか。失敗したと思った筆の運びが、いい意味で絵に歪みを与えていた。僕が想像しきれない、僕の望む完全体とやらを、僕の体が勝手に描いてくれているようだった。
 僕は興奮した。そしてひたすらに筆を進めた。そうする内に、やがて僕はなぜこんなに僕が今楽しめているかを理解した。だが僕はそれを噛みしめずに呑み込んだ。それは深く掘り下げるべきものではないと、僕は本能で理解したのだ。だから僕はそれをすぐに呑み込んで、忘れてしまうことにした。そうして改めて絵に、絵という自分色の世界を想像することに集中した。絵の中では世界は春で、仮面をはぎ取った桜がきらきらと花を咲かせていた。枝も長く太く、崩れ落ちてしまいそうな納屋を必死で守っている。そしてそんな桜の下では彼女が春らしい格好に身を包み、ほんのりと頬を桜色に染め、小さく微笑んでいた。それはとても愛しく、薄い色ガラスのような世界だった。絵が完成に近づくに連れ、僕はそれを壊さないように、そっと、筆を運んだ。
 そして絵が出来上がると、僕は泣いた。なんだかよくわからない涙だった。哀しくもなければ、嬉しくもなかった。もちろん決して大切ななにかをなくしてしまったというわけでもない。ただ涙だけが出た。筆洗の中の濁った水のように、どろどろ汚れた涙のように僕には思えた。絵の中の世界に比べれば、汚れた世界で汚れた僕が流す涙も当然汚れているに決まっていた。彼女はそんな僕の横にすっとやってくると、そっと僕の手を取った。さよなら、と僕は思った。さよなら、僕の涙。君はなにを僕に残していくんだろう。
 空から音もなく、雪が舞い降りてきた。雪は僕が見つめる枯れ草にちょんと乗っかって、すっと消えた。彼女が手を出して、その掌に雪が一粒二粒とくっついた。「桜みたいだね」と彼女が言った。目を上げれば、たくさんの雪の花びらがあの木の周りを漂っていた。もっと降れよ、と僕は思った。地面では積み重なった雪たちが、消えることなく黄土色のキャンバスを白く染めていた。
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