スターゲイザー REVERSE-SIDE 
 Prologue それはまるで必然のように 
 その時の衝撃を、僕はうまく言葉に表すことができない。飾り立てて言ってしまえば、それはまるで季節はずれの雪のようで、気付いたら僕の目の内には彼女が映っていた。もちろん、決してじっと見つめていたわけではない。そっと、それこそひらひらと舞う雪片を眺めるように、僕はただそのひやりとした雰囲気に呑まれていた。見ていたと言うよりは、見ざるを得なかった、見ずにはいられなかったと言った方が正しいのかも知れない。そこに漂っていた空気には、どこか幻想的な塵みたいなものが含まれていた。その塵を吸い込むごとに、僕の心からは緊張感が、拳銃を握る手からは力が抜けていく。僕にはそれがわかっているのに、どうすることもできない。ただただ、彼女を見つめることしかできない。
 そこは廃虚となった病院の、ロビーだった。詳しいことはわからないが、現状を見る限り、無惨としか形容のしようがない。剥き出しになった地面に、砕けた壁。銃痕や、それを覆う大量の黒い血。黄土色のスポンジがはみ出した待ち人用の長椅子。いくつかの爆破跡まで確認できる。そしてそれらは、なにもかもが病院という言葉から連想されるイメージとは異なっていた。そこでは、致命的なまでに病院が病んでいた。治療してくれる医師もおらず、病院は少しずつ死に向かっていた。それは見るに耐えない光景だった。
 だが、そんな中に一つだけ、明らかに異質なものがあった。ロビーの真ん中に、桜の木が生えていた。大きな桜の木だ。剥き出しになった地面から生えたそれは、吹き抜けとなっている二階を超え、大きく穴の開いた天井をその白い花で覆い隠していた。薄暗い病院の中で、花びらの間から漏れる朝日が、スポットライトのように木の周りを照らしている。そして、そのスポットライトの中に、彼女はいた。右手の甲に白い小鳥を乗せて、微笑の横顔を僕に見せていた。
 思わず、僕は天使かと思った。彼女は妙に神々しくて、儚くて、本当に天使が存在するのであれば、それは彼女のような姿をしているのだろう。そんな容姿をしていた。彼女が天使に似ているのではない。天使が彼女に似ているのだ。羽さえ生えていれば、彼女はまごうことなき天使だった。しかし、実際羽が生えているのは小鳥だけで、彼女はみすぼらしい白いワンピースに身を包んでいる。だが、それでも彼女は美しかった。夜空のような黒髪と雪原のような肌が互いを尊重しあい、光の中で確かに彼女は輝いていた。光の粒が彼女を縁取っていた。
 それを見つめる僕の心にあったのは、やり場のない感動と興奮だった。それらは決して僕の外側へとは表れないけれども、確かに僕の内側で脈打っていた。大きな脈動が、何度も何度も見えないドアをノックした。僕にはそれが見えないから、応えることもできず、やはり彼女を見つめることしかできない。塔の頂上から雪に覆われた町を見下ろしているような、九十パーセントの感動と十パーセントの断絶感に挟まれて、でもそれでも目を離すことはできないのだ。その時の僕の頭は、馬鹿みたいに真っ白だった。
 しかしそこで僕は急に現実に戻らされた。僕の手から零れ落ちた拳銃が、石床にぶつかって音をたてたのだ。僕ははっとし、落とした拳銃へ目を向けた。だがすぐに鳥の小さな羽ばたきが聞こえ、拳銃を手に取る前に、僕は顔を上げた。彼女は必然的に僕を見つめていた。その手にはもう鳥はおらず、彼女はゆっくりと体の横へその手を下ろす。そして、体が僕へ向けられた。僕らは、そうして見つめ合った。
 遠目に見る彼女の瞳は、不自然なくらい澄んでいた。真っ黒なのに、色がないような、向こう側の世界が透けて見えるような、そんな瞳をしていた。そして、彼女の瞳には確かに僕が映っているはずなのに、僕は彼女の目の内に僕を確認することができなかった。彼女の瞳の中には、なにもない。やがて僕は、僕と彼女は離れていたけれど、それでもさらに何億光年も離れたところにいるような、激しい隔絶感に襲われた。不意に怖くなったのだ。僕は、本当はここにいないのではないだろうか。そう思ってたまらなくなった。そこから走って逃げ出したくなった。
 そうして気付けば僕は、銃口を彼女に向けていた。床に落ちた拳銃よりも一回り小さいそれは、確かに彼女の眉間をその銃口の先に捉えていた。僕の体は小刻みに震え、溢れ出しそうなわけのわからない感情に顔は歪んでいたけれど、銃だけは震えずに彼女を狙っていた。
 その時、その行為により生まれるなにを僕が求めていたのかは、今でもわからない。それは本能による行為のようでもあるが、実際のところ、理性が僕にそうさせたように思える。だから、確かに一番それらしいのは心の安定だが、おそらく不正解だろう。僕の中のもう一人の僕が、彼女へ銃口を向けさせたのだ。今まで僕がずっとそうしてきたように。だからそこにはもっと明確な、さめざめするような理由が含まれているはずなのだ。だが、僕にはそれがわからない。
 なにより、僕は彼女を撃てなかった。彼女は恐がりもしなければ、拳銃という存在に対してなんのアクションも取らなかった。それは僕の恐怖をさらに煽ったが、僕はどうしても引き金を引くことができなかった。そして、やがて彼女が口を開いた。彼女の声は、湖面に雪が吸い込まれていくように、すっと世界に広がって、呑み込まれて、消えた。天使に似合う、小さくて素敵な声だった。
「あなたは、誰?」
 そして僕はその瞬間、それはまるで必然のように、彼女を守ろうと誓った。
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